愛知県の城址【大野城址】【大草城】

どーもVOXです

今回は僕の地元にある大野城と大草城について紹介していきます!

城というより歴史の紹介になるかと思います。織田信長の弟『有楽斎』やお市の方の娘『お江の方』も登場します!

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大野城

大野城は現在の愛知県常滑市金山の青海山にあった山城。大草城とは矢田川を挟んだ南側に位置する。『宮山城』とも呼称されるそうです

階段が結構あり、良い運動になります

現在、主郭部は常滑市指定文化遺産となっていて、城山公園として整備されています。山の頂上には模擬天守風の展望台があり、伊勢湾が一望できます

模擬天守
小さいですが、奥にセントレアが見えます

展望台の中には幾つかの資料が展示されてあり、当時の大野城や知多の歴史を学ぶことができます

展望台のすぐ近くに、城主であった佐治氏を祀った佐治神社があります

アクセスは、名鉄大野町駅から徒歩15分くらいで行けます、Google map参考にして下さい

沿革

1350年頃、三河国守護の一色範氏が知多半島に勢力を伸ばし、その子一色範光により築城される

●一色氏は足利義政と対立し、三河守護職を失い勢力は衰退。1470年頃、尾張守護の土岐氏に大野城は奪われ、家臣の佐治宗貞が入城、新たな城主となる

●三代当主佐治信方の頃、織田氏に従うが(信方の妻は織田信長の妹お犬の方。信長は伊勢湾を掌握する佐治水軍を重要視し、佐治氏を一門衆並みの待遇でもてなした。信長の『信』の字を拝領されるほど)、信方は伊勢長島攻めにて討ち死に。わずか22歳だった(1574年頃)

●信方の子一成はまだ幼少であったため信長は長男の信忠に尾張の支配権を与え、信忠は織田長益(有楽斎)を知多郡領主とし、大野城に入城させた。実質的な城主は長益になる

1581年、長益は水利を求めて、伊勢湾に近い大野城北西の大草に大草城築城に着手

1583年、佐治一成は15歳になり元服を機に独立、大野城主となる。お江の方と結婚(婚約のみとも)。長益は大草城館に移ったと思われる

1584年、秀吉は尾張を信長の次男信雄に与える。信雄は重臣である星崎城主の岡田重孝を暗殺。一成はかねてから岡田重孝方に荷担していた為、大野城も攻撃を受けた。一成は叔父である織田信包を頼って伊勢へ…廃城
※小牧長久手の戦いで、家康を助けたため秀吉の怒りを買い追放された、という説もあります

大草城

大草城は現在の愛知県知多市大草にあった平城です。城址は現在大草公園となり、本丸には模擬天守風の展望台があります。こちらも展望台の中には資料が展示されてあります

公園の周りには水堀土塁がまだ残っています

水堀

公園の近くには津島神社と地蔵寺があります

津島神社
地蔵寺

アクセスは、名鉄大野町駅から徒歩10分くらいで行けます、Google map参考にして下さい

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沿革

1581年、長益は水利を求めて、伊勢湾に近い大野城北西の大草に大草城築城に着手

1582年、本能寺の変が勃発。大草築城工事は中断。天守は作られず幻となってしまった。しかし館は作られ、長益は1586年頃までは館に住んでいた、と思われる

まとめ

大野城を築城したのは一色氏、その後城主として100年ほど君臨したのが佐治氏、最後の城主佐治一成の最初の妻はお江の方
大草城は完成を待たずして廃城、築城を進めていたのは織田長益

感想

大野城・大草城ともに城は残ってなく、模擬天守として作られた展望台は簡素なものですが、その地に生きていた人々や風景、想い等が感じられました

全国的には無名な2城ですが、歴史を紐解けば織田信長の『弟』や『めい』も登場してくる列記とした戦国時代の城だったんだ、と感慨深いものがありました

※因みに、大野城址から大草城址、大草城址から大野城址が見えます

大野城址から見た大草城址
大草城址から見た大野城址

地元の人間として、こういった歴史を守っていかなければと改めて思いました。皆さんの故郷はいかかでしょうか?どこにでもこういった歴史は必ずあると思います。ぜひ足を運んでみて、新しい発見をみつけてみてください!

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